「南京大虐殺」の真実を追う〜〜中国排日8

2012年12月21日

前回まで3回にわたり、米人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ”が著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の内容の一部を紹介してきた。この著書は1938年11月にアメリカで刊行され、とりわけ1936年12月に蒋介石が中国共産党に拉致監禁された西安事件から1938年10月の日本軍による広東攻略までの背景や中国の戦争宣伝についてかなり具体的に描かれている。私がこのブログで紹介したのは、日本人が大量に虐殺された昭和12年(1937)7月29日の通州事件と、同年8月9日に日本兵が射殺されたことから始まった上海での日中の軍事衝突(第二次上海事変)であるが、この第二次上海事変は3ヵ月続き、11月9日の中国軍の一斉退却で終わっている。そしてその第二次上海事変が終了した約1か月後、この軍事衝突を早く収束させるために日本軍は国民政府の首都である南京攻略を目指したのだが、この南京攻略の後に所謂「南京大虐殺」があったという説がある。ところが、その10か月後に出版されたウィリアムズ氏の著書においては、まだ日も浅い時期に起きたはずの「南京大虐殺」について、全く何も記載されていないのである。ここで、日本軍の南京攻略について簡単に纏めておく。このブログで何度も書いたように、当時の国際社会が日本に対して厳しい見方をすることが多かったので、上海派遣軍司令官の松井石根(まついいわね)大将は全軍に軍規の徹底を呼びかけた上で、昭和12(1937)年12月9日に籠城する国民政府軍に対し投降勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから翌日に攻撃を開始しているのだが、こともあろうに蒋介石は20万人近くの市民を置き去りにしたまま12月7日に南京を夜間脱出しているのだ。日本軍の攻撃開始後には、国民政府軍の唐生智将軍までが南京から脱出したために国民政府軍の戦意は衰え、12月13日に南京が陥落し日本軍が城内に入っているのだが、「戦勝国にとって都合のよい歴史」では、それから約6週間にかけて日本軍が一般市民を殺戮した(「南京大虐殺」)という説が、今も強く主張されている。国民政府軍の責任ある地位の者が逃げて秩序ある降伏が出来なくなったために、一部の中国兵が軍服を捨て、平服に着替えて「安全区」に逃げ込みゲリラとなって抵抗したことから、日本軍がゲリラ狩りを行ない処刑を行なった事実はある。




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 普段、あたりまえのようにライブで華ちゃんの姿を見ています。一応は「芸能人」の括りに入るであろう華ちゃん。ライブのステージの上に立っている人と握手したり、贈り物を手渡ししたりしまいには顔を覚えてもらっていたりと普通に考えたら凄い事だなぁって思います。






Posted by ぶどう at 02:30│Comments(0)
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